65を過ぎるまで、自分の住む街のことを全く知らなかったのだが、このところ少しだが勉強を始めた。
一昨日は先に延期となった、ボランティアガイドのOJTで、私が最初に「小山御殿」でのガイドを指定されていた。以前の市民大学での講義に「徳川将軍の日光社参と小山」と言うのがあって、とても楽しかったので、ガイドの先生の原稿は勿論なのだが、この内容を引用して自分なりのプレゼンを準備していた。人前での話は原稿があっても難しい。最初のプレゼンとあって皆が気遣って拍手などしてくれたが、日本語での言語障害持ち?の私は言いたかったことを相当漏らしてしまった。
で、昨日の講義は、「小山評定と関ヶ原合戦」と銘打った講義だった。先の「日光社参」と共に最も楽しめた講義だった。街の博物館のアラサーと思われる女性学芸員(ご本人がここで働くようになって10余年と言っていた)の講義だった。
小山評定は存在しなかったという学者の論文もあるそうだが、あったとする慶長5年(1600年)頃、小山評定に関わりを持つ人々の書状(8つの史料)と数々の絵図を基に実在説は確かだとしている。ただ、本当に軍議だったのか、家康からの一方的な命令だったのかは、内容の詳細記録が残っていないので不確からしい。それに家康はこれ以前から様々な情報を入手しており、引き返す事を考えていたという。
それと評定が市内の何処で行われたのかも3つの説があり、市当局(古城の中「小山御殿跡」付近説)と家光から寄進された朱御輿(朱御輿)を所有する須賀神社(馬場説)、史料と絵図などからの字「御茶屋前」説があるという。小山の古城跡地(御殿跡付近)というのが最も軍議に相応しい場所ではないかと言うことであった
徳川将軍の公式記録とされる「徳川実紀」に記載があるのだが、嘉永2年(1849年)に編纂されたものであり、小山評定から250年も後の記述であり、エピソードのような記録で史実を正しく記した物ではないという。
新しい発見もした。
紹介されたそれぞれの絵図が、各地の図書館や博物館所蔵と記入されているので生の絵図を見ることが出来ないのかと質問したところ、徳川幕府は、地方の宿場町の絵図を相当数作らせていたらしいのだが、これらの絵図の非公開は、その美術的、芸街術的価値の低下を防ぐ目的もあるのだが、当時の被差別部落の位置を一般に知らせないことも理由のひとつだという。
紹介されたそれぞれの絵図が、各地の図書館や博物館所蔵と記入されているので生の絵図を見ることが出来ないのかと質問したところ、徳川幕府は、地方の宿場町の絵図を相当数作らせていたらしいのだが、これらの絵図の非公開は、その美術的、芸街術的価値の低下を防ぐ目的もあるのだが、当時の被差別部落の位置を一般に知らせないことも理由のひとつだという。